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東京滞在記 三日目

『はなればなれに』@ゴダール映画祭。愉快。くるぞくるぞ、もうすぐダンスシーンくるぞ!と思いながらニヤニヤして観る。小沼純一さんが『はなればなれに』の音楽が結構凝ったものだと言っていたのに(http://cinefil-imagica.com/dvd/column/0022.html)、うっかり聞き逃してしまった。
夕方からはアテネストローブ=ユイレ。『ヨーロッパ2005年、10月27日』『アルテミスの膝』『ジョアシャン・ガッティ』『ジャン・ブリカールの道程』。
ジョアシャン・ガッティ』だけ初見でしたが、若い男の写真にストローブが何か訴えてる声が重なる短い(二分?)作品。ルソーの『人間不平等起源論』を引用しながら「私、ストローブはあなたがたに言いたい!」と力強く語りかけるストローブにあっけにとられる。ヤフーフランスでググってみたらジョアシャン・ガッティが失明した原因であるフラッシュボールに関する記事がたくさん出てきたのだけど、ほんとに恐ろしい。顔は狙わないことになってるみたいだけど、失明に関する記事が数件出てきた。眼球砕く武器のどこが「致命傷に至らない人道的な武器」なのか。
『ジャン・ブリカールの道程』はずっと見直したいと思っていたから今回見れてよかった。ボートのエンジン音と横移動が心地よい。
上映後の吉田宏明さんの講演では興味深いお話が聞けました。パヴェーゼの世界では元々人間が存在していて、神の登場によって人間は限りある命を生きる動物として自己認識し始めるんですって。だから不死の神にとってはどうでもいい瞬間でも、いつか死んでしまう人間にとっては一度しか訪れない「特権的な瞬間」であり、それらを記憶(記録)する必要があった。だから言葉が生まれた。これがパヴェーゼの世界。
そこで浅田彰の「juste une image(ただの一つのイメージ)=ゴダール」と「une juste image(ある一つの、正しいイメージ)=ストローブユイレ」をひきながら吉田さんは、神的な「ただのイメージ」を人間的な「正しいイメージ」「特権的な瞬間」へ転換させるのがストローブ=ユイレであると語る。2005年10月27日の事件を、ジョアシャン・ガッティという男を、いつの日か失われるイメージを「正しいイメージ」という言語で記録する必要があったのだ。その「正しいイメージ」において電気椅子は「ガス室」という言葉と並置されることによってユダヤ人排除の記憶を呼び起こすだろう。

かなりざっくりとしたまとめになってしまったけど、色々なことにつながるお話でした。ふむふむ。