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cinéphile et cinéphilie

ずっと「シネフィル」という言葉や「映画を愛する」ということについて、複雑な感情を抱いていました。「シネフィル」と呼ばれる人たち、あるいは自称する人たちがあたかも普通の映画ファンとはちがった映画論、感覚を持っているかのような言い方をされている事があったからです。だから私は「シネフィル」なんて言葉が日本で使われなくなればよいのに、と真剣に思っています。自らをシネフィルと称し、普通の映画ファンを素人呼ばわりして排他的になる人間も、逆に自分が理解できない理論を持つ人を「あいつはシネフィルだから」とか言って疎外してしまう人間も、どっちもクソだから。「シネフィル」なんてとっとと消えてしまえ。

しかし、そうも簡単にシネフィルという語は日本から消えてくれないのです。だからせめて「シネフィル」を自分で勝手に定義してしまおうと考えていて、ようやく決まったのでここに記しておこうと思います。
シネフィルとは、映画を通じて世界を愛した人間です。
直接現実を愛するのではなく、また映画のなかの世界を愛するのでもなく、「映画を通じて」現実世界を再発見した人間。私が大学時代に書いたレポートと、後で引用する畑中佳樹さんのことばを足してこんな感じになりました。語源通りに狂ってるし、いい感じだと思うので、かすかな反抗として私は私のシネフィリーをひっそりと育もうと思います。

なんの変哲もない平凡なもの、見慣れたもの、取るに足らないものが、ある時とつぜん不可思議な光芒を発して、ぼくらの目を驚かせるのではない。順序が逆である。そうではなくて、ぼくらはまず、映画に驚いてしまう。映画によってはじめて可視のものとなった世界の相に目をうばわれてしまう。そうしてその後に、目にしているものがそういえば何の変哲もない見慣れたものであることに気がつき、動転してしまうのだ。そしてその動転が、感動的なのである。
映画狂は胸に手を当ててじっと考えてみてほしい。映画の感動とは、驚くべきものに驚いてみるという、そんな底の浅い体験に尽きてしまうものだろうか。まさか。それよりも、なんの変哲もないものに驚いてしまう、そして自分を驚かせたものが、そういえば何の変哲もないものだったということに、もっと驚いてしまう―――そういうことが、映画の感動の奥深さではないのだろうか。
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抜けるような青空に白い雲が浮かんでいるのを見て、映画狂が「あっ、ジョン・フォードの空だ!」と叫ぶ時、彼はジョン・フォードを知らない人間よりも、たぶんはるかに深くその青空を愛している。どこにでもある青空の愛し方を、映画が彼に教えたのだ。
畑中佳樹『夢のあとで映画が始まる』

夢のあとで映画が始まる

夢のあとで映画が始まる