EDU

勉強のあいまの仮眠中にフランスの大学で勉強している夢を見まして、目覚めたときに「夢でも勉強かよ」と思って苦笑。でもすぐに悲しい気持ちになって、涙がちょちょぎれた。
留学したいなぁ、と今でも思います。このままダラダラと死んだように生きて、そして最後には死んだことにも気づかないで消えてしまいそうな気がする。できるだけ若いうちに、どうにかして海外に出たい。悶々とする春のはじめ。

cinéphile et cinéphilie

ずっと「シネフィル」という言葉や「映画を愛する」ということについて、複雑な感情を抱いていました。「シネフィル」と呼ばれる人たち、あるいは自称する人たちがあたかも普通の映画ファンとはちがった映画論、感覚を持っているかのような言い方をされている事があったからです。だから私は「シネフィル」なんて言葉が日本で使われなくなればよいのに、と真剣に思っています。自らをシネフィルと称し、普通の映画ファンを素人呼ばわりして排他的になる人間も、逆に自分が理解できない理論を持つ人を「あいつはシネフィルだから」とか言って疎外してしまう人間も、どっちもクソだから。「シネフィル」なんてとっとと消えてしまえ。

しかし、そうも簡単にシネフィルという語は日本から消えてくれないのです。だからせめて「シネフィル」を自分で勝手に定義してしまおうと考えていて、ようやく決まったのでここに記しておこうと思います。
シネフィルとは、映画を通じて世界を愛した人間です。
直接現実を愛するのではなく、また映画のなかの世界を愛するのでもなく、「映画を通じて」現実世界を再発見した人間。私が大学時代に書いたレポートと、後で引用する畑中佳樹さんのことばを足してこんな感じになりました。語源通りに狂ってるし、いい感じだと思うので、かすかな反抗として私は私のシネフィリーをひっそりと育もうと思います。

なんの変哲もない平凡なもの、見慣れたもの、取るに足らないものが、ある時とつぜん不可思議な光芒を発して、ぼくらの目を驚かせるのではない。順序が逆である。そうではなくて、ぼくらはまず、映画に驚いてしまう。映画によってはじめて可視のものとなった世界の相に目をうばわれてしまう。そうしてその後に、目にしているものがそういえば何の変哲もない見慣れたものであることに気がつき、動転してしまうのだ。そしてその動転が、感動的なのである。
映画狂は胸に手を当ててじっと考えてみてほしい。映画の感動とは、驚くべきものに驚いてみるという、そんな底の浅い体験に尽きてしまうものだろうか。まさか。それよりも、なんの変哲もないものに驚いてしまう、そして自分を驚かせたものが、そういえば何の変哲もないものだったということに、もっと驚いてしまう―――そういうことが、映画の感動の奥深さではないのだろうか。
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抜けるような青空に白い雲が浮かんでいるのを見て、映画狂が「あっ、ジョン・フォードの空だ!」と叫ぶ時、彼はジョン・フォードを知らない人間よりも、たぶんはるかに深くその青空を愛している。どこにでもある青空の愛し方を、映画が彼に教えたのだ。
畑中佳樹『夢のあとで映画が始まる』

夢のあとで映画が始まる

夢のあとで映画が始まる

WHATEVER WORKS

ウッディ・アレン『人生万歳』@桜坂劇場。ラリー・デヴィッド演じるボリスのシニカルな言動一つひとつが面白くって、最初から最後まで笑いっぱなしだった。
アレンのボリスの描き方はほんとうにすばらしくて、彼の皮肉が嫌味を通り越して他人への甘えというか、周囲とかかわるための道具になるようにすごく丁寧に撮っている。だから人間嫌いで他人に厳しいボリスのことを、なぜか嫌いになれない。部屋の階段に座りながら恋に悩むメロディのバストショットで、びっこをひいて歩くボリスの足音がふいに聞こえたときには思わず泣きそうになってしまった。とても好きな作品。

Lady Yakuza

『緋牡丹博徒 花札勝負』@桜坂劇場。やっぱシネスコはスクリーンで観るとぜんっぜん違う!!画面を部分的につかって観客の眼を左右に振り回す(?)加藤泰の作品だからなおさら。金原組に殴りこむお竜を背後から追った手持ちキャメラのリアルなぐらつきに興奮。上映後の山根貞男氏の解説では、加藤泰作品では別れる男女の一方がしばしば画面の奥ではなく手前側に向かって去ってゆくことについての話が興味深かった。確かに!とびっくりする。映画観て人のお話聞いて「ああ!」とびっくりする、という体験が大学の講義以来だったのでとても懐かしい感覚だった。98年シネマテークfrでの特集など海外での受容についても聞きたかったなぁ。

toeic。11月に受験したときよりもダメだった。反省。
帰りに図書館で蓮實重彦『齟齬の誘惑』と鈴木雅雄『ゲラシム・ルカ ノン=オイディプスの戦略』を借りる。『齟齬の誘惑』は普通のエッセイ集かと思いきや、「齟齬」というキーワードのもとに東大総長時代の祝辞や学内新聞への記事をまとめたものだった。「塔から寄港地へ」という言葉が印象的。アメリカでは出身大学とは異なる大学の院に進学し、そしてまた異なる大学で助教とか研究員のポストをみつけるのがあたりまえだと聞いたことがある。このような流動的なシステムが日本のようなピラミッド型(頂点に東大・京大)ではなく、トップの幅が広い台形型を形作っているんだそうです。蓮實元総長はこの本のなかで、大学とは寄港地のように色々な人々が訪れては交流し、離れてゆく寄港地のようでなければならないと語っている。十年も前から問題視されていたことが、いまだに解決されてないという事実に驚く。「大学」という組織のあり方についてとても魅力的な言葉で語られていて、ますます大学で働きたいと思った。さいごに少しだけ映画に関する文章あり。

齟齬の誘惑

齟齬の誘惑

上記二冊といっしょに『優雅なハリネズミ』の邦訳も借りたけど、さいしょの数十ページで読むのが辛くなる。他人を小バカにした人間が二人も出てきて、その上それぞれが一人称で語る物語なんてキツいです。

『フィリップ、きみを愛してる!』

去年の夏ごろにどっかから作品のチラシをもらってきて、地味に楽しみにしていた作品。いくつもの嘘を乗り越えて結ばれるゲイカップルの物語。
ジム・キャリー演じるスティーヴンの回想で物語は始まるんだけど、この冒頭がテンポもいいし面白い。事故で顔面ボロボロになりながら「ゲイとして生きる!」と宣言する強烈なシーンや、スティーヴンが暗闇のなか腰を振るセクシーかつ爆笑のベッドシーンで観客をすっかり虜にする。綿矢りさの書き出し並に面白かったです(←最上級だよ!)。
物語の大半は刑務所が舞台になっているんだけど、ちゃんと塀の外と中の差が画面で示されているところが良いと思った。ラブコメディだから、オープンな雰囲気の刑務所に白やオレンジの囚人服を用いることで例えムショの中でも明るい雰囲気作りはなされているんだけれども。でも屋外の、あの輝く光には及ばない。明るい屋内よりもさらに明るく、これでもかって程きれいな光でとにかく明るく撮られた塀の外。スティーヴンが病室を抜け出して飛び降りるシーンでは、彼の背景にできるだけ空が大きく映るように。妻のデビーのブロンドがやわらかく輝くように。この光溢れる外の世界が後半、これまでになく暗い部屋のベッドに横たわるスティーヴンによって見つめられるショットの過酷さ。これまで塀のなかにいても自由に生きていたスティーヴンを、悲劇的な状況へと追い込む。
しかしラストでスティーヴンを照らす至高の光!!独房のなかにいるはずの彼を包む光は屋外のそれよりも強く、崇高に思えた。

『ソーシャル・ネットワーク』(デヴィッド・フィンチャー、2010)

マークが早口でまくし立てるファーストシーンもすごいんだけど、私はボートの場面に圧倒されてしまった。ウィンクルボス兄弟登場のシーンでもあるボート部の練習風景での、橋の下からすーっと何艇かのボートが出てくるショットも恐ろしく美しかったし、オランダチームとの試合の場面も素晴らしい緊張感があった。音楽のテンポが上がってゆくのも、ベタだけど素敵。
基本的には和解のための調停?でのマーク、エドゥアルド、ウィンクルボス兄弟らの証言で物語は進められる。だからフェイスブックをめぐる騒動の「真実」を描いた作品ではなく、むしろ複数の視点・言い分が入り混じる物語。パッチワークのように繋げられるから、繰り返し語られる『羅生門』よりは一見スッキリとしているけど、実はややこしい。裏切りの真相が明らかになるわけでもない。若干エドゥアルド側に偏ってるように感じたけど、観終わった後に私のその印象すら自分で疑ってしまった。白か黒で人・出来事をわけず、ひたすらグレーであり続ける。しかし物語を貫いているのはこの複雑さではなく、エリカという女性の存在であるという点もとても良かった。